神の目。

私がこの前エントリした言葉に、

https://motokokamata.amebaownd.com/posts/493732

ある方がくれたコメント。

これ、独り占めがもったいないので、許可を得まして公開いたします。

ながーいですですけど、噛み締めると味わい深いです。

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大生命は、創造した世界を自ら味合うことは叶わぬ仕組みしでした。

如何にすればこの創造を受け止める事が出来るのであろうか・・・

そうだ、創造されたモノになろう。

創造された物と創造された者になって、世界を受け止めるのだ。

そうだそうすれば、世界を体験し、

その体験が再びココに戻ってくることで、存在の永遠の輪が繋がる。

有る事と居る事の交換により、

存在は無限に豊潤となり、アリツヅケるのだ。

・・・そして私の目は神の目と重なられて、神は私を通じて創造を体験する事が初めて出来たのだ。

私が存在を体験する事を通じてしか、神は創造を受け止める術を知ら無い。

あなたを通じてしか、存在は意味を持てず、また進化する術も無い。

人間は神を崇めるが、それも良いだろう、

しかし我々はそろそろ気が付いても良い時なのだ。

神こそが人間を拝んでいるのだと。

あなたが存在世界を体験する事が、世界を豊潤にしているそのままであり、

人の悪しき事も善き事も、全てを咀嚼して、世界は成長しつつある仕組み。

あなたの目は神の目、あなたの全ての喜怒哀楽とは、

世界がより豊潤に成長せんとする、糧となっている存在の仕組み。

純粋には強度が欠け、僅かなながらの不純により、物事はその強度を増す仕組み。

均等には発展がなく、差異を持ってそれを埋めんが為に流動が起きていく永遠の仕組み。

それ故に、完成には発展がなく、未完成であることが存在の持続には必要なのだ。

無限、生成、発展する私達と言う宇宙、その存在そのものが、今ワタシしている。

生きている事に意味が有ると言うよりも、生きている事が意味を生産している。

あなたと言う存在が、神に拝まれているということ。

・・・私達は今、宇宙の妊婦であり、

まもなく、新しきクニを出産する親への道を歩いています。

新しきクニには、成長の栄養が必要です。

そのクニの栄養は、ヒトのキであるが為、親と成ろうとする私達人間が、

我が中真より出ずる創造の種を育て、

喜びと言うキ、希望と言うキ、生と言うキ、を

世界から紡ぎ出すオコナイ、

それを農に見て、芸術に見出すことは難しく無いでしょう。

そのまま、ありのままで、イイんですよ・・・と話し続ける意味とは、

その事なのですよ。

存在からすれば、あなたは既に親であるうとしているし、

また世界に意味を付与し続ける、新しき若き神である存在であり、

祝福され続けている神の御宝なのですから(^人^)

私はモトちゃんのことも、皆さんの事も、

凄いこの世の宝物に見えてしまいます。

それにはちゃんとした理由があり、それがここで言ったことなんですね。

創造の意思(双子神)は、

モトちゃんを通じてしか自らの産みし世界を味わえない仕組み。

モトちゃんのありのままは、

世界の糧となり、世界は豊潤となり、神の至福となる仕組み。

とてつもない存在、それがあなたであり私なんですよね。

世界は永遠に成長していく必要が有ります、それは宿命ですね。

私達が世界が在り続けていることを認識出来る、

それを持続と呼べば、

完結してはならない、完成してはならない、固定してはならないんですよね。

完結してしまったら、持続はあり得ませんし、

完成してしまっても持続は有りませんね。

続いていても前と同じ事の繰り返しであれば、

どこに持続を見て取れるのか?それもまた無いのと同じなのですよね。

故に存在は、無限、生成、発展をその本質として在り続けていて、

『欠けていること』は無限に成長していく完全な宇宙にはなくてはならない

未完成と言う完全性ですね。

言うまでもなく、完全で無いものには価値が無い、と言う思考の病に、

私達地球人類は掛かって来ましたよね。

それも仕方の無い事でもあり、

完成を目指して成長する意思もまた、世界に必要な側面なんだと思います。

でも、完成したい、と言う意思の裏側には、

『私は完成してい無い』と言う認識があればこそ、完成を目指していく。

私達はそろそろ、自らの意思を思考の対象にして、

自らの意思の持つ神なる力、創造の想像力に自覚的になっていいトキを迎えましたね。

『私達は完全であり、未完成であるということが完全性を持っている』と言う理力(Force)を我がものにしていくのも楽しいかもしれません。ideaのことです。

『私があなたを見る眼差しを、神が私を見る眼差しと等しくさせること』

哲学者ラカンの言ったコトバですが、

正に私が意図することはこの事であり、

神こそが人間を拝んでいる親心と言う思し召しを、

私があなたを見る眼差しと重ねていくこと。

あなた自身の抱く思考の鎖(常識、通念、規範、道徳なと)から、

自ら解き放ち、各々の中真に鎮座する神の分け御霊へと方向性を保ち、

そこからあなたの豊潤のみ導かんとす意思との共振共鳴が、

羅針盤として一人一人を過たず導いていく、

そう言う仕組みを私達は持っているように思われます。

それを私なら『カミナリ(神成り)』と呼ぼうと思っているのですが、

受動に甘んじる私達の意思が、私達の驚異の神性を自覚して、

世界を産み出しにかかること、

子から親へのトランスフォームを敢行することが、

親への孝行、先祖への孝行、神への孝行とは成っているのでは無いでしょうか。

結論は、とてもシンプルに。

『そのまま、感じるまま、より豊潤に』あなたの意思を表現すること。

ただそれだけであなたは存在世界の宝物。