底に空いた穴を出入りする何か。

ネットに接続する時間が激減したら

自分自身に接続する時間が増えた。


で、時間が空くと本を読む。

今まで読めなかったのは、刹那的な情報を詰め込み過ぎていたせい。

webの情報を見たら、ほんの数行の文章や画像で分かった気になる。

でも、一つのテーマに沿った本を何十ページと読むと、自分の中でいろんなものが生まれてくる。

すぐに調べたい単語なんかも出てくるけれど、調べられないジレンマが、記憶という脳の器官を復活させる。


体もそうだけど、使っていると思っているのはほんのわずかで、

いつも動かさない動きをしてみるだけで、身体は思い出していく。


骨盤が割れるように痛くなって以来、

からっぽの骨盤の中に、筋繊維のようなものが縦横無尽に走っているイメージがあり

それらがぴーんと張り詰め、なかなか緩まなかった。


最近それがやっと緩み始め、バレエのレッスンでやるような

股関節を膝から細かく動かす動きや、骨盤を固定して足だけを回転させる動きとかをやると

この骨盤内の細かい筋肉?筋?に刺激が与えられて、いろんなものが動き出していく気配がある。


動き出したのは、春だからなのか、それとも?


で、読んだのは、中沢新一の「悪党的思考」。

実は後半の「黄色い狐の王」の部分しか読んでいないけど。

ダーキニと天川村の話なのだ。。

そこで、自分の思考がかなり中沢新一に影響されていたことを思い出す。。。

この本は88年に出版されたみたいだけど、そのちょっと前、よく読んでいたのだった。

大学の卒制のコンセプトは「虹の階梯」という中沢新一の著書に影響されていたりする。

あ、ら。

こんなところで、またお会いしましたね。。

この人の感じている「穴」であるとか「結ぼれ」というイメージが

自分の感じているものにすっぽりとはまる。


……あとがきのさらにあとがき、より。

私の考えでは、宗教というものは、「人間現象の「底部」になんらかの形で「穴」がうがたれ、そこから社会的に価値があるものとみなされているものとは異質な何かが、人間の内部に侵入や出入りをくりかえすときに発生する現象なのである。人間現象の「底部」から侵入を繰り返すその「何か」を、たんなる異常と見なすような社会では、それは宗教とは呼ばれずに病理としてのとりあつかいを受ける。あるいは、宗教現象そのものが、異常で変態的なものとして、取り扱われることとなる。ところが「バクティ(熱烈な信仰心)」的なものへの感覚を失っていない社会では、人間の内部への、その異質なるものの侵入こそが、その人間がたんなる人間であることを超えて、神的な真理に近づいたことの証として、高い価値をあたえられることになる。

これ、宗教じゃなく「アート」と言い換えてもいいかもしれない。

その出入りする感覚を、あの、リゾートホテル、に置いてみようと思うのだ。

ああ、恐ろし(笑


<展示後に追加>

そして、このあと、他者のエネルギーをコラージュにすることで作品を作ろうといくつかつくったのですが、あまり人が集まらず、なんか違うんだろーな、と思い、放置したまま熊野の温泉にご飯作りのバイトに行く。

で、戻ってきて、樹木からインスピレーションをもらって作品を作るが、いまいち。

作り終わったはずのコラージュを再構成して、ふと浮かび上がったカタチに、やっとこれというものを見つける。。。

それが、現在展示されている作品たちです。

でも、今、この「出入りする感覚」を読むと、その通りのものができている。

何よりもそれがうれしい。。

Will-o'-the wisp

ART WORKS