生まれること

最近、みぢかに子供が生まれることが多い。

喜ばしいことだし、無事出産できてなによりだ、と思う。

でも、なぜか、周りの人ほどキラキラと喜べない。

ああ、自分は冷たい人なのだなぁ、といつも思う。


子供について、あまり興味がなく

一緒に遊ぶとか何していいかわからない。

それもまた冷たい人間だからなぁと思っている。


愛情とはどう示したら良いのだろう?

アメリカ人みたいに大げさに振る舞うことはなんだか気持ちが悪い。

そして、周りが喜んでいるから喜んでみる、のも、なんだかな、なのである。


でも、この前、生まれた話をしていたら

お腹の中では男と思われていて、生まれたら女だった経緯を思い出し

「自分が生まれてきて喜ばれなかった」という何やら重いものを思い出した。

そう、首がすわるまで写真もない。

父親は生まれる場にもいなく、だいぶたってから来たらしい。


母親には喜ばれたのかもわからない。

(離婚したがっていたから)


幼稚園の頃に額に傷を作り、女性としても否定され

逆に、身体だけ成長してセクハラにあうとか

どんどん、生きにくくなって閉じこもる自分を感じて

結局のところ、「生まれる」ってそんなにめでたくもなく

「生きるのは苦痛に満ちている」何て思っている気がした。


この世に生まれいでる命が全部そんなわけではないってわかってはいるのに

自分の中の「生まれる」に関する情報は、これしかないんである。


それでは喜べもしないよね〜って(苦笑

しみじみ思った。


でもまぁ、しょうがないわー

それでも生きてきたし

それなりに楽しいこともあったし

これからも楽しいことはあるだろう。


同じように、生まれてきたことを喜んでもらえなかった傷を持つ人もいるだろう。

だからひとりぼっちというわけでもないだろう。


それでも、そんなことは関係なく、この肉体は生きてきた。

それについては「許されている」し「歓迎されている」んだと思う。


個人的な規模や期待を上回る、宇宙の意思からみれば

こうやって生まれて生きていること自体が祝福なのだから。


だったらそっちに目を向けてみようと思う。


「この世に肉体を持って出現するということを選んだ魂に祝福を。」


うん、その卵細胞が分割してこの姿になって現れる、その身体的なシステムに感動はする。

あーやっぱし、なんだか、自分てなにか感覚がおかしい、と思うけど

しょうがないのだわ。


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先日価値観の違いで責められてひどく落ち込んだ。

わたしはそのひとの価値観を、自分とは違うけどこの人はこの人でしょうがないよなーってただ飲み込んできたから、なんで、受け入れてくれないのか意味がわからなかった。

お互い様でしょう?なのになんで私だけ責められるの???

でも、私がその人にしてたのは「我慢」だった。

実は何かやってほしいと頼まれた時、最初に感じるのはいつも「やりたくない」だった。

でも、まぁかわいそうだし、ってやってあげてただけ。。。

ああ、これこそ「愛」とは懸け離れた行為。

逆にものすごく失礼なことをしていたんだな、とやっとわかった。

「愛」をもって断る、のほうがよかったんだ。

むかむかしながらやることなんか、いい循環になりはしない。そして他者にないがしろにされることで、じぶんを大事にしていないことを思い知らされるのだ。


そう、自分の価値観がどんなに違っても、

恐れずに「愛」からくる選択だけで生きるしか手はない。

こころからやりたいことだけに意識を向ける。


嘘つきではいられない。

偏った感覚と生々しい人間らしい感情とこねくり回してねじれてしまった何かと

それがじぶんという存在。

カオスであるものを整える必要はない。

もう、いいんじゃないか。一つの決まり切った場所からの意見なんか。


と、ここまで書いたら

ギャオスナナ嬢がじーっと見つめてきた。

目があうこと30秒あまり。

猫はあまり目を合わせるのは好きではない。

タイマン張る時くらいのものだから。


わかってんだろ、なのか、もういいじゃねぇか、なのか…

御歳14歳の眼力。

息が止まるくらいのめぢからいただきました。

衰えてはいませんな。

Kamata motoko Artwork

いのちをアートとして生きる。